|
第3回 『Work together』
>>>メニューページに戻る
1973年に始まった日本企業の投資は その後次々と主に南部・西部・中部ウェールズで続き 1980年には英国ホヤ・レンズさんが北ウェールズでの日本企業第一号として誕生しました。 これで日本企業進出は南ウェールズばかりでなく、北ウェールズにも広がり、ウェールズ全体でいずれは60社といわれる大所帯になっていく土台ができました。 続々というように投資を発表したり、生産開始をする日本企業の情報がテレビやラジオのニュースを賑わせました。 そうなるとローカルのウェールズ人も「Japaneseの会社でちょっと仕事をしてみようか」などという呑気なことも言っていられません。 新しい職場でこれまでは見たことも聞いたこともなかったような新鮮なマネジメントの元で「違うなあ。面白いなあ。」という生活が始まりました。
まず、食堂にしてもトイレにしても上役も部下も同じところを使います。管理職用・事務職員用・工場労働者用と厳しく分かれているのが普通であった英国企業とは大分違います。 日本企業でも、勿論そういう分類ができている企業もありましたが、それでも英国の社会のようなクラス意識による分類ではなく 管理職でも近い所に工場労働者用のトイレがあれば、そこへちょっと入るということはいくらでもありました。 上級管理職や工場長も皆作業着を着ているし、社長でさえも工場に出入るするときは、きちんと作業着を着ます。こんな簡単なことが英国人従業員の目には、極めて斬新なこととして映ったようでした。 社員食堂の中で、隣のテーブルに社長や工場長が一緒に同じメニューの昼食を食べているというのも、何とも嬉しいこととして、ローカルの従業員の家庭では話題になりました。
そうこうしている間に、各企業の日本人家族も次々にウェールズ入りをしてきました。 まず家を探し、診療所の登録をし、警察で外人登録をし(これは今は必要なくなりました)とここまでは現在と同じことですが 学校だけが違いました。 日本人補習校がありません。 どうしても各家庭で何とかしなければなりません。 低学年で来たお子さん達はまだいいとしても小学校高学年や中学に入ってから来たお子さんは 英語力の欠如から、現地校についていくだけで大変です。 それに加えて日本語を維持し、将来帰国した日の為に日本の教育課程にできるだけ遅れないようにしておかなければなりません。 ‘お母さん’だけではなく‘お父さん’が会社の仕事を終えてから 家で遅くまで、人によっては夜中の1時2時まで家庭学習を続けました。 今のように日本からのビデオや DVDが手軽に入手できたり通信教育が盛んにできる時代ではありませんでしたし、パソコンを駆使して日本からの情報を即刻探知できるという時代でもありませんでした。
そこで「何とか日本人学校ー補習校を作れないものか」という声が日本企業の間から起こり始めました。 日本企業の有志の方たちが中心となり可能性の探索が始まりました。 この有志の方たちの中に、当時英国松下電器産業でカーディフに勤務されていた村山 敦さん(現在は関西国際空港株式会社社長)がいらっしゃいました。 私が昨年の秋日本へ一時帰国していた間に、超ご多忙の村山社長にお会いして、その頃のお話をいろいろとおうかがいすることができました。
「手造りの補習校でしたね」その頃を懐かしそうに思い出されながら開口一番こう言われました。 「夜中まで子供の勉強をみながら、何とか補習校を作れないものかと必死でした。 ロンドンの日本人学校へ出張して研修も試みました。 文部省にも掛け合いましたが、少なくとも100名の児童・生徒が集まらない限り 補習校として公認はできないという。 カーディフでは、その頃40名集めるのがやっとでした。 途方にくれました。 補習校の姿を夢にまで見ながら、とにかく今は‘通信教育だけでも何とか充実させよう’と考えました。 丁度その頃 日本から当時の二階堂議長を団長とする議員の視察団が来られました。 小阪信越化学社長とか若い頃の細川さんなども団員でした。 もうその場で補習校の必要性を訴えました。 先輩議員達が‘これは細川君の出番(担当)だ’といわれたのをよく憶えています。 それで日本大使館などへも話が早く通じるようになったと思います。 補習校の設立には必死でしたが、日本の教育をそのまましてもらいたいとは思いませんでした。 その辺は割り切って 日本語だけでもキープしてもらいたいという思いでした。 ウィークデイに英語だけでの生活から受ける現地校でのプレッシャーから子供達を少しでも楽にしてやりたいという気持ちでした。 土曜日はそういう子供達にとっては天国でした。 その頃成人教育センターにムーニランという先生がおられました。 英語圏以外の外国から来た人たちに主に英語教育をしていた先生でしたが、このムーニラン先生が実によく日本人子弟の面倒を見てくれました。 日本人の子供達が英語で生活できるようになるまでプレッシャーに苦しむことがなくなるように 日本人補習校は必要だといわれたムーニラン先生は 子供の気持ちを大変よく理解していました。」
こうして村山社長のおっしゃる‘手造りの補習校’は1981年9月に開校しました。 人数が足りなくて文部省正式認可がおりなかったのですから 財政的に援助する必要もあり、南ウェールズに存在する日本企業で初めて‘日本人会’が結成されました。 「業種や社風が様様に違うだけでなく、逆に競争相手になる会社もありながら、‘日本人会’としてあれだけ堅く結束できたのは、やはり補習校を守ろう、日本企業と日本人社会を成功させようという各社の気構えがあったからではないでしょうか。」という締めくくりで村山社長はインタビューを終えられました。
 |
|
 |
| |