|
『吉賀憲夫コラム』 第4回 『ウェールズの親不知子不知---ペンマインマウル 』 >>>メニューページに戻る
どの国にも、またどの地域にも交通の難所というものがある。日本で有名な難所に、親不知がある。親不知
を広辞苑で調べると、「波が荒くて、親は子を、子は親をかえりみる暇もないほどの危険な海岸をいう。特に、新潟県西頸城郡青海町にある5キロメートルの北
陸道の険路にこの称がある」とある。親不知、子不知とは、それにしてもよくいったものである。
菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台となる豊前の国の山豊川の難所「鎖渡し」もそうであろう。その「鎖渡し」とは「山国谷第一の切所(きりしょ)で、南北
往来の人馬が、ことごとく難儀するところ」である。主人公市九郎は主人を殺し、女と出奔し、悪事を重ねる。しかし改心し、美濃の寺で僧となり、諸人救済の
旅にでる。豊前の国の山豊川で、難所「鎖渡し」から転落して命を落とした馬子を見、この難所に洞門を穿つ決心をするという物語であるが、菊池寛はその「鎖
渡し」を次のように描写している
川の左に聳(そび)える荒削りされたような山が、山国川に臨むところで、十丈に近い絶壁に切り立たれて、そこに灰白色のぎざぎざした襞(ひだ)の多い肌を
露出しているのであった。山国川の水は、その絶壁に吸い寄せられたように、ここに慕い寄って、絶壁の裾を洗いながら、濃緑の色を湛えて、渦巻いている。
(菊池寛、『恩讐の彼方に』)
これと同じような、まさにウェールズの親不知子不知や「鎖渡し」というべき交通の難所が北ウェールズにあった。しかし危険という点においては、それは日本
の比ではなかった。この悪名高いウェールズの難所の名をペンマインマウル(Penmaenmawr)という。それはバンゴールとコンウィーの間にあり、ア
イリッシュ海に向かってそびえ立つ、まるで壁のような標高500mの山塊である。しかもこのペンマインマウルは大変重要な街道に立ちはだかっていた。すな
わちイングランドのチェスターから北ウェールズの海岸地帯を通りホーリーヘッド、さらにそこからアイルランドへ行くためには、必ずここを転落覚悟で通り抜
けねばならなかったのである。転落を避ける唯一の方法は、潮が引いたときにだけ出来る波打ち際のわずかな岩場を通ることであったが、それすら大変危険なこ
とであった。
ペンマインマウルの最初の道は、初期キリスト教の隠修士セイリオルにより6世紀に造られた。その道は17世紀のチャールズ1世の時代にも使用され、「王の
道」と呼ばれるイングランドとアイルランドを結ぶ重要な街道の一部となったが、その当時でさえ、このペンマインマウルの道は狭いところではわずか1mの幅
しかなかったという。実際に多くの旅人が、古来この断崖の中腹の道を命がけで通行した。当然のごとく、この難所から転落して命を落とした者も多かった。
ちょうどその頃、この絶壁から転落したが奇跡的に命拾いをした男がいた。18世紀の北ウェールズのジェントリであったトマス・ペナント(Thomas
Pennant, 1726-98)は著書『ウェールズ旅行記』(A Tour in Wales, 1778-81)に、その強運の男のエピソードを書き残している。
約1世紀前、この教区のジヨン・ハンフリーズはコンウィー川の対岸にあるクレイディンのアン・トーマスに求婚した。2人はコンウィーの町に市が立つ日に会
う約束をした。男は行く途中でペンマインマウルから転落してしまった。一方、女の方は、乗った渡し船が転覆し、80人以上の乗船客のなかで彼女だけが助
かった。ふたりは結婚し、スランヴァイル教区で共に長生きした。女は1744年4月11日に116歳で亡くなり、男は妻より5年長く生き、1749年12
月10日に、その教区教会墓地に埋葬された。彼らの墓は今日もなお暖かく見守られている。(トマス・ペナント、『ウェールズ旅行記』)
これは幸運がふたつ重なった奇跡に近い出来事であった。1720年にはこの断崖のもう少し低いところに新しい道(「ペンマインマウルの眺め」、F・ボイデ
ル画、1750年)ができたが、それすら大変危険な道路にかわりはなかった。今度は頭上の岩壁から剥がれた石や岩が落下し、通行者を襲ったからであった。
その道に人馬の転落を防止する石の塀がとりつけられたのは1772年のことであった。
ペンマインマウルの通行が大いに容易になったのは、メナイ海峡にあの美しい世界初の吊り橋を架けた有名な土木技師トマス・テルフォードによる道路が
1830年に完成してからであった。そして1935年に造られた新しい道路にはトンネルもあり、初めて安全な交通が確保された。ペンマインマウルはもはや
交通の難所ではなくなった。今そこにはA55号線が走っている。
 |